時は過ぎゆくままに。

久しぶりにかつての単身赴任先を訪れ、馴染みの定食屋に足を運んだ。

案の定、店は廃業していた。

前回暖簾をくぐった時、おかみさんから「主人が癌で、もう長くはない」と聞いていたからだ。

昔、仕事帰りに通っていた時には、座っただけで定番が出てくる店で、チャンポンを看板に掲げているのだが、何故かサーロインステーキ定食が人気だった。

特に和牛のサーロインが絶品で、馴染みの客は皆それを注文し、私もいつしかそれに倣っていた。納得行く肉が入らない時、注文を断られることもあった。

聞けば、主人は以前一流ホテルのシェフだったという。
地方都市の故郷に戻り、レストランよりも定食屋の方が客が付くだろうという狙いで、それは的中した。

ところで、時は無常である。

ただ気をつけなければ行けないのは、無常は非情ではない。
無常とは「常に無い」=「常に変化している」ことである。
だから生き物は死を迎え、物は壊れ、店は閉じてゆく。

時は常に変化を刻んでいるのだ。

普段生活している中でもいろいろな変化は起きているが、私たちはそれに気付かないことが多い。

しかし中には変化しないものも有る。それは記憶だ。

記憶は時が経つと共に薄れて行きはするが、決して変わることない。
人々が共有する記憶が代々語り継がれれば、それは伝説となる。

それほど大袈裟ではないケースでも、仕事の記憶は職場の中で語り継がれてゆく。他人の自慢話を聞かされるのは辟易だが、それでも過去に先達が苦労した足跡を客観的事実を織り交ぜて傾聴することには学ぶものが多い。

得てしてそのような時、語り手は謙虚だ。故にこちらもすんなりとその記憶を受け入れられる。本物は多くを語らない。但し後進には記憶をしっかりと伝えてゆく。記憶を受け取った者は、それを更にに伝えなければならない気に駆り立てられ、綿々と続けられる。

細やかなことが記憶に残ることもある。
先に紹介した定食屋の主人はその一例で、馴染み客の間で語り継がれてゆくだろう。

こうして見ると、果たして自分は人の記憶に残る仕事を為し得たのだろうか。自分自身も変化する能力を有するのだから、記憶に残ることも決して無理な話ではない。しかしそれは自分で残すものではなく、関わりがあった人々が残すものである。

私もこのまま無為に過ごせば、いずれ忘れ去られるだろう。
時は過ぎゆくままなのだ。

2019年5月5日

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